こんにちは、sadachi. です!
1955年にカンヌ映画祭でレーニエ大公と出会い、翌年に結婚式を挙げた伝説的な美女
グレース・ケリーを描いてみました。
同時代に活躍した女優マリリン・モンローの明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的な、気品に満ちた容姿が「クール・ビューティー (cool beauty) 」と賛美され、レーニエ大公も一目惚れだったのでしょうか。
結婚は人気絶頂の最中で、女優業から引退は全世界の映画ファンを失望させたと言われています。
自動車を運転した際に脳梗塞を起こし、52歳の若さで亡くなったとそうですが、その死は未だに謎に包まれているそうですよ。
それでは、グレース・ケリーの似顔絵にお付き合いくださいね!
Contents
グレース・ケリーの鉛筆画です!
それでは、模写した写真を掲載しますので、もう一度比べてみてくださいね。
グレース・ケリーの水彩画です! 画像は替えています。
水彩画は慣れませんね、なかなか綺麗に仕上がりません!
模写した写真です、もう一度比べてみてください。
鉛筆画と水彩画の2作品は、インスタグラムでも公開しています。遊びに来ていただけたら嬉しいですね!
グレース・ケリーのプロフィール
ハイスクール卒業後、家族の反対を押し切り女優を志す。1951年、22歳で映画に出演しデビュー(『Fourteen Hours』)。この作品を見た製作者のスタンリー・クレイマーが『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーの相手役に抜擢した。映画監督アルフレッド・ヒッチコックのお気に入り女優で『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』などの作品でヒロインをつとめている。彼がグレース・ケリーを評して”Grace Kelly is a snow covered volcano”(雪に覆われた活火山)と述べた逸話はあまりにも有名。
1954年に『モガンボ』でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、1955年には俳優ビング・クロスビーの妻役でシリアスな演技を見せた『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞。
非常に恋多き女性として有名で、ゲイリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、レイ・ミランド、ビング・クロスビー、ウィリアム・ホールデン、オレグ・カッシーニ、ジャン=ピエール・オーモンなどの、主に自分より年長の男性と浮名を流した。
カンヌ国際映画祭で知り合ったモナコ大公レーニエ3世(在位1949年 – 2005年)と結婚。公妃となるため女優業を引退、1956年のミュージカル映画『上流社会』が最後の作品となった。
結婚後は3人の子どもに恵まれ、公妃としても病院を設立したり、自身の名前を冠したバレエ学校を支援するなど精力的に活動した。
1982年9月13日、自らハンドルを握りローバー3500を運転して南仏のロックアジェルの別荘からモナコに戻る途中に脳梗塞を発症。そのまま急カーブの坂道でガードレールに激突し、道路横の崖を40メートルほど転落して自動車は大破した。事故後すぐに病院へ搬送されたが意識が回復しないまま翌日に死亡。この事故死を受けてモンテ・カルロでは1日全てのカジノの営業を中止して喪に服した。(出典:Wikipedia 抜粋)
名 前 : Grace Kelly(グレース・ケリー)
本 名 : Grace Patricia Kelly(グレース・パトリシア・ケリー)
生年月日: 1929年11月12日
没年月日: 1982年9月14日
年 齢 : 52歳没
出 身 : アメリカ合衆国、ペンシルベニア州フィラデルフィア
身 長 : 169 cm
【配偶者】
レーニエ3世
【映画】
『Fourteen Hours』
『真昼の決闘』
『モガンボ』
『ダイヤルMを廻せ!』
『裏窓』
『喝采』
『緑の火 エメラルド』
『トコリの橋』
『泥棒成金』
『白鳥』
『上流社会』
まとめ
グレース・ケリーの自動車事故は本人の運転中に起きたとされましたが、同乗していたのが次女のステファニー公女(当時17歳)で、軽傷だったこともあり、当時の現地報道ではステファニー公女が運転していたとも報道されたそうですよ。
事故から5日後の9月18日にモナコ大聖堂にて葬儀が行われ、各国の王族・要人の他、フランク・シナトラらハリウッド俳優も多数参列したと言われています。
次回は、これも世紀の美女といわれたエリザベス・テイラーを予定しています。
それでは、今回はここまでとさせていただきます!
最後までご覧いただき誠にありがとうございました!