こんにちは、sadachi. です!
二枚目スターと言うより二枚目半と言われ、東映の一時代を築いた大スター・大川橋蔵さんの登場です。
“おとわや~!”と大向こうから声がかかる六代目尾上菊五郎さんにその才能を見出され、12歳のときに養子になって二代目大川橋蔵を襲名したんですね。
橋蔵さんが歌舞伎界から映画界へ転身したのは、先に映画界入りした市川雷蔵さんから強く勧められたからだそうです。
東映と大映の二枚目スターとして、当時のファン層を二分していたといっても過言ではない二人、若くして亡くなられたのは惜しまれるばかりです。
私は何を隠そう橋蔵さんの大ファンで、全117本の映画出演のうち昭和31年の江戸三国志くらいから100本近くは観ています。
それでは、大川橋蔵さんの似顔絵にお付き合いくださいね!
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大川橋蔵さんの鉛筆画です!
これは、1961年12月に封切られた作品『赤い影法師』の橋蔵さんです。
私は「橋蔵やったら若さまやろ」と言ったんですが、ファンでもない妻が「これが橋蔵らしくていい」と言ったので言いなりになった格好です。
それでは、模写した写真を掲載しますので、もう一度比べてみてくださいね。
大川橋蔵さんの水彩画です!
橋蔵さんの代表作と言えば『若さま』と『葵新吾』ですね。これは『新吾二十番勝負』の橋蔵さんの雄姿です。
これは、当時の映画雑誌「近代映画」の表紙を飾っているんですね。
この時代は、映画1本で「近代映画」が発行されていましたから、私は橋蔵さんに限らず何十冊と持っていたんですけどね。
大学から大阪に就職している間に、実家に合った雑誌はどこかへ行ってしまったようです。ホント、惜しいことをしたと悔やんでいます。
若さま侍は、いつか描きますね。
模写した写真です、もう一度比べてみてください。
大川橋蔵さんの色鉛筆画です!
橋蔵さんがテレビドラマで、同じ主人公として18年間、888回という金字塔を打ち立て、ギネスブックの世界記録になっています。
そのドラマと言えば『銭形平次』、舟木一夫さんの歌声に乗って颯爽と登場したのは1966年でしたね。
模写した写真です、もう一度比べてみてください。
これらの作品は、インスタグラムでも公開しています。遊びに来ていただけたら嬉しいです!
大川橋蔵さんのプロフィール
柳橋の芸妓の子として出生し、生後まもなく小野家の養子となる。養父は市川瀧之丞という歌舞伎役者で、端整な顔立ちの富成を役者に育てようと、幼い頃から舞踊を仕込む。のち、知り合いだった四代目市川男女蔵の部屋子とした。
最終的に映画界入りに際して歌舞伎の世界と縁を切ったが、歌舞伎に対する敬意と愛情は終生持ち続け、映画転向後に自身の一座を組んで舞台公演を行う際には、必ず『お夏狂乱』『鏡獅子』『船弁慶』などの歌舞伎舞踊を中幕の演目に選び、観客を喜ばせた。
1955年12月、『笛吹若武者』でデビュー。しかしこの時は歌舞伎に籍を置いたままだった。2作目の『旗本退屈男』を撮った後マキノ光雄の誘いに応じて東映に入社。デビュー作『笛吹若武者』で共演した美空ひばりから、本名の富成をもじっていきなり「トミー」というニックネームをつけられ戸惑ったが、これが映画界の洗礼となった。この後、東千代之介・中村錦之助・市川雷蔵・大川橋蔵の四人は、「二スケ二ゾウ」と呼ばれ、橋蔵も若手時代劇スターを代表する一人として昭和30年代の日本映画黄金時代の立役者となっていく。
名 前 : 大川 橋蔵(おおかわはしぞう)
本 名 : 丹羽 富成(旧姓:小野)
愛 称 : トミイ
生年月日: 1929年4月9日
没年月日: 1984年12月7日(55歳没)
出 身 : 東京市(現在の東京都)
【映画】
『笛吹若武者』
『若さま侍捕物帖シリーズ』
『葵新吾シリーズ』
『草間の半次郎シリーズ』
『江戸三国志シリーズ』
『七つの誓いシリーズ』
『紫右京之介シリーズ』
『橋蔵の若様やくざ』
『雪之丞変化』
『若君千両笠』
『花の折鶴笠』
『恋や恋なすな恋』
『銭形平次』その他
大川橋蔵さんが1983年の撮影中に倒れたときには、既に結腸癌が肝臓に転移している状態だったそうです。
病名は告げられなかったんですが、病気を察した橋蔵さん「大酒も飲まず煙草も喫まず、食事にも気を遣い、いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、何故こんな病気になったんですか!?」と医師に訴えたといいます。
ファンだった私は仕事の関係で行けませんでしたが、妻も賛成してくれて本気で青山斎場まで駆けつけようと思ったものです。
55歳という若さでしたね、残念無念というところです。
次回は、橋蔵さんとトミイ・マミイで数多くコンビを組んだ美空ひばりさんです。
それでは、今回はここまでとさせていただきます!
最後までご覧いただき誠にありがとうございました!