こんにちは、sadachi. です!
私は高校2年生ぐらいから30歳手前ぐらいまで週刊少年マガジン、サンデー、ジャンプ、チャンピオン、キングと週刊漫画雑誌5誌の愛読者だったんですね。
20歳を過ぎてからでしょうか、それに月2回発行のビッグコミックとビッグコミックオリジナルが加わっているんです。
ですから、ちばてつやさんと聞けば懐かしいですね、『ハリスの旋風』とか『おれは鉄平』、『のたり松太郎』なんか、でもやっぱり圧巻は『あしたのジョー』ですかね。
そんなちばさんが、今夜のNHK『ストーリーズ』という番組に出演されるんですね。
そこで「ちばてつやプロフィールや経歴は?嫁や兄弟家族も屋根裏部屋でペン!」と題しまして、ちばてつやさんについてまとめてみましたので、参考にしてくださいね。
それではさっそく、本題へいってみましょう!
Contents
ではまず最初に、ちばてつやさんのプロフィールから見ていきましょう!
【ちばてつやさんのプロフィール】
名 前 : ちば てつや
本 名 : 千葉 徹彌(ちば てつや)
生年月日: 1939年1月11日(81歳)
出 身 : 東京府(現:東京都中央区)
血液型 : O 型
小学校 : 墨田区立小梅小学校
中学校 : 日本大学第一中学校
高 校 : 日本大学第一高等学校
【受賞歴】
★ 1962年 第3回講談社児童まんが賞『1・2・3と4・5・ロク』『魚屋チャンピオン』
★ 1976年 第7回講談社出版文化賞児童まんが部門『おれは鉄兵』
★ 1977年 第23回小学館漫画賞青年一般部門『のたり松太郎』
★ 1977年 第6回日本漫画家協会賞特別賞 『のたり松太郎』
★ 2001年 文部科学大臣賞
★ 2002年 紫綬褒章
★ 2009年 第33回講談社漫画賞講談社創業100周年記念特別賞
★ 2012年 旭日小綬章
★ 2014年 文化功労者
★ 2017年 練馬区名誉区民に選定
ちばさんは1939年ですから昭和14年1月11日に東京で生まれ、その年の11月に朝鮮半島にわたり、幼少期を旧満州・奉天で過ごしています。
1945年同地で終戦を迎え、生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期だったそうですよ。
翌1946年に一家で日本に引き揚げ、千葉、飯岡を経て東京都墨田区小梅町に移り住むことになったそうなんですね。
道端に落ちていた豆本の漫画の表現力に衝撃を受けたそうで、それ以降漫画にのめり込むのですが、家で漫画は一切禁止だったので、友達の家でこっそり読んでいたそうですよ。
小学生の時に木内堯央さんに誘われて、1950年同人誌「漫画クラブ」に参加しています。
16歳といいますから高校2年生のときですかね、新聞の三行広告で見つけた漫画家募集に応募しているんですね。
募集した日昭書店の石橋国松社長は、ちばさんの才能をみたのでしょうか、ちばさんにプロの生原稿を見せて、道具の使い方を教え、試しに描いてくるように指示したといいます。
30ページほどの原稿を持ち込むと、続きを描くように指示されたんですね、ちばさんはテストだと思い言われるままに描き続けたそうですよ。
何度か繰り返した後に、最後は28ページで話を終わらせるよう指示を受けたそうです。
最後の原稿を持ち込むと、その場で当時の大学初任給を超える1万2351円を原稿料として手渡されたそうですよ。
このときに執筆した『復讐のせむし男』が貸本として出版されたので、漫画家デビュー作となったんですね。
1956年でしたから17歳で漫画家になり、以降は高校に通いながら貸本の執筆をつづけたとのことですよ。
ちばさんは、自分自身を見出してくれた石橋国松社長に恩義を感じていたんでしょうね、『ハリスの旋風』の主人公・石田国松は、石橋社長の名前からとったそうですよ。
ちばさんは雑誌では、少女漫画からスタートします。
講談社の「少女クラブ」から執筆依頼を受け『リカちゃん』を執筆、また集英社「少女ブック」からも依頼を受け『舞踏会の少女』を執筆、後者が先に出版されたため雑誌デビュー作になっています。
これは、少年漫画は執筆陣が飽和状態だったのに比べ、少女漫画の方は新人の入る余地があったからだといわれています。
雑誌デビュー後に「少女クラブ」と「少女ブック」の連載が始まているんですね。
集英社がちばさんの許可を得ることなく別冊への掲載を予告、これを機にちばさんは講談社と専属契約を結び、「少女ブック」の連載は降板することになったんですね。
1961年には、講談社の「週刊少年マガジン」で『ちかいの魔球』の連載を開始、少年漫画にも活動の範囲を広げています。
1965年に発表された『ハリスの旋風』は、テレビアニメ化されて、注目を集めているんですよ。
1968年には、劇画作家・梶原一騎さんと組み、ボクシングを舞台とした『あしたのジョー』を発表しているんですね。
この作品は爆発的なヒットとなり、連載されていた『週刊少年マガジン』の発行部部数を飛躍的に伸ばしたほか、一躍社会現象とまでなったのは記憶に新しいところです。
その後も『のたり松太郎』や『あした天気になあれ』など、スポーツ漫画のロングランヒット作に加え、幅広い作品を発表していったのですが…。
ちばさんは『少年よラケットを抱け』の執筆中に、心臓疾患と網膜剥離を患って手術を受けたんですね、その間2~3週間だったそうなんですね。
病院から帰ると、スタッフ8人分の椅子と机が粗大ごみのところにあったそうです。
制作していた部屋にあがると、ちばさんの机が1個だけ、どうしたと奥さまに聞いたそうですが、答えが「退職金を払って出て行ってもらったよ」との返事だったそうです。
連載を抱えると、どうしても根を詰めて制作に没頭するため、ちばさんの健康を気遣った奥さまが8名いたスタッフを解散させたんですよ。
最初は怒ったそうですが、そのうちにちばさん自身がホッとしたそうです。
『少年よラケットを抱け』は、1994年に連載を終了し、それ以降は、長期連載の仕事は行っていないそうですよ。
1998年にはやなせたかしさんの後任として、社団法人日本漫画家協会の常任理事に就任しています。
2012年、日本漫画家協会理事長に就任し、2018年6月からは同協会会長となっているんですね。
2005年からは文星芸術大学でマンガ専攻の教授を務め、後進の育成に力を注いでいるんですが、なんと、2019年4月1日から文星芸術大学学長に就任しちゃったんですよ。
ちばてつやさんは4人兄弟の長男で、次男・研作さんは元漫画家で千葉プロダクションの社長さん、末っ子は漫画原作者の七三太朗さんですね。
三男のちばあきおさんは、ちばさんのアシスタントから『キャプテン』や『プレイボール』などを手掛けた漫画家に育っています。
ちばさんの奥さまは、漫画家のチバユキコさんで、ちばさんのスタッフを解雇した方ですね。
またちばさんの次男・千葉修平さんは文星芸術大学で専任講師を務め、父の助手として漫画教育に携わっているそうですよ。
あの国民的大ヒット作『あしたのジョー』から半世紀、ちばさんは薄暗い屋根裏部屋でひとり、漫画を描いているそうです。
命を燃やして作品を生み出し続けてきた漫画家・ちばてつやさん、大病を患い、大勢いたアシスタントも全て卒業してしまった今、今日やれることを穏やかに精いっぱい、続けているといいます。
4年前、18年ぶりに始めた長期連載で描くのは、14歳の老犬・ジローとの何気ない日常、今の歩幅で仕事を続けているんですね。
新型コロナウイルスが猛威をふるう2020年、世界中の「日常」は壊れ、この先を見通すことができない中、それでもちばさんは変わらずに屋根裏部屋でペンを持っています。
今夜の『ストーリーズ』、ナレーションのないドキュメンタリー「ノーナレ」として進めていくそうですよ、どういった展開になるのでしょうね、楽しみです!
★ NHK総合『ストーリーズ』 8月10日(月) 夜 10時45分~11時15分
注)本記事内のツイートに関しては、Twitterのツイート埋め込み機能を利用して掲載させていただいております。皆さまの貴重な情報に感謝いたします…♪
注)アイキャッチ画像に関しましては、「平和祈念展示資料館」さんのツイート画像を使用させていただいております…♡
今回は「ちばてつやプロフィールや経歴は?嫁や兄弟家族も屋根裏部屋でペン!」と題しまして、ちばてつやさんについてまとめてみましたが、いかがだったでしょうか?
病院から帰ってきたら誰もいなかった、というのは凄いですね、奥さまの深い愛情が感じられて、少しドキッとしました、いい話です。
ちばさんは81歳になられて、いまも現役で漫画を描いていらっしゃるんですね。
最近の漫画にはお目にかかっていませんが、きっとほっこりする漫画じゃないかと想像します。
身の丈といいますか、今の歩幅といいますか、今日やれることを穏やかに精いっぱい続けている、そうなんですね、ちばてつやさんがいつまでもペンを走らせることを祈っておりますよ。
それでは、今回はここまでとさせていただきます!
最後までご覧いただき誠にありがとうございました!