こんにちは、sadachi. です!
2010年に全国に先駆けて、埼玉県川越市に救急専門の個人医院・川越救急クリニックを立ち上げたのが上原淳さん、救急医療改革を目指す医師として多方面から注目を集めています。
上原さんが中学生の頃、他人の人生に影響を与える仕事がしたいと政治家と教師、医師の選択肢を考えたそうです。
そして、得意な理科系を活かして医師を目指そうと思ったとのことですよ。
そんな上原さん、今夜のNHK『逆転人生』に出演するんです、経歴を追ってみるとどこが逆転人生だろうとも思うんですが、救急医療を個人で開業したことでしょうね。
そこで「上原淳のプロフィールや経歴は?救急医療改革医師はラリードライバー」と題しまして、上原淳さんの救急医療を経歴等でご紹介し、”二足の草鞋”ともいえるもうひとつの素顔もまとめてみましたので、参考にしてくださいね。
それではさっそく、本題へいってみましょう!
Contents
ではまず最初に、ザーッと上原淳さんのプロフィールを追ってみましょう!
1963年9月4日東京都中央区生まれています、現在56歳ですね。
1983年産業医科大学入学、1989年医師国家試験にパスし麻酔科医として、産業医科大学病院、門司労災病院(現・九州労災病院門司メディカルセンター)、九州厚生年金病院(現・JCHO九州病院)に勤務、麻酔科指導医を取得しています。
福岡市立こども病院・感染症センターなどに勤務したあと、1998年から九州厚生年金病院で救急担当医として勤務しているんですね。
2001年から埼玉医科大学総合医療センター高度救命救急センターに勤務することになり、2009年には同センターで講師を務めています。
2010年7月に国内初となる、救急科に特化した川越救急クリニックを開業し、院長として、日々地域密着型ERを続けているんですね。
2015年NPO法人日本救急クリニック協会を設立し、理事長を務めているんですよ。
上原淳さんの実家は本屋だそうで、よく店番をしながらマンガを読んだそうですよ。
当時は、手塚治虫さんの『ブラックジャック』に夢中になり、主人公のように弱者を助けられるような医師に憧れたそうなんですね。
福岡県の産業医科大学に進学し心臓外科を目指すのですが、5年生の時の臨床実習でいろいろな病院をまわった際、思うような心臓外科が見つからず、とりあえず同じ外科系である麻酔科に進むことにしたそうです。
ところが、その麻酔科医の仕事が面白くてたまらなくなったそうなんですね、そして6年目には取得可能になったそうで、指導医の資格も取っているんですよ。
最初の勤務地は福岡市立こども病院で、新生児の集中治療室だったそうです。
さらに違う病院を経験したあと、産業医として働きながら週2日、救急の当直のアルバイトを始め、そこで初めて救急に触れたそうですよ。
当初は何も分からないので看護師さんの言うとおりに動いていたのですが、ある日高齢の女性が運ばれてきたそうです。
取り立てて何もしたつもりはないのに、あとからとても感謝されたそうで、救急って感謝されるんだと、改めて救急の面白さにのめりこんでいったそうですよ。
そんな折、かつて麻酔科医として働いていた九州厚生年金病院から「救急を始めるので戻ってこないか」と声がかかったそうなんですね。
そこでは上原さんが中心になって、新しく救急部を起ち上げたといいます。
でもこの病院は救急を受け入れたことがなく、消防署へ救急を起ち上げたことを知らせに行ったとき「おたくはこれまで救急を断ってきた、今さら始めるといっても信じられない」と
相手にされなかったそうです。
そんなこともあり、最初のひと月にやってきた救急車は3台だけだったそうですよ、それが3年後には300台来るようになったというんですね。
当時医師経験11年目だったそうですが、救急は初めてだったので一から学び直しだったんですが、自分でもよく勉強したと振り返っています。
そのうちに研修医が専門分野ごとに勉強会を開くことになり、救急隊にも声をかけると参加してくれるようになったそうなんですね。
救急隊や地域の人と信頼関係を築き上げるのは大変だったそうですけど、楽しかったと言っています。
救急に携わるようになって「自分がやりたかった医療はこれなんだ」と思ったそうですよ。
救急医療が、いかに地域と信頼関係を築くことが大切かを知ることができた瞬間で、生涯の上原さん自身の医療提供の道を見つけたということなんでしょうね。
ここは大きな病院だったので重症患者も多いそうなんですが、専門医がいなかったため、3次となる超重症患者が来たときは対応できなかったそうです。
そこで3次救急の経験を積もうと決心し、救急センターでの働き口を探したところ、縁あって埼玉医科大学総合医療センター高度救命救急センターに勤めることになったんですね。
ここで2年ほど勉強をして、福岡の救急医療をするために帰ろうと思っていたそうですが、結局この病院に8年もいて、ここにクリニックを開業することになるんですね。
埼玉医大では時間外で年間4万5千人ほど救急にかかる人がいたそうです。
救急センターは3次医療しかとらないので、軽い1次、2次の患者はほかの各科にまわることになるんですね。
1次、2次の患者は全体の8~9割を占めるので、その数が多く対応しきれずに、どこも悲鳴を上げる状態だったといいます。
本来1次、2次の軽症患者を担うべき病院に軽症患者を診てもらわないと3次救急も機能しなくなり、救える命も救えなくなってしまうということなんですよ。
埼玉医大の救命救急センターがつぶれると、埼玉県の救急医療全体が崩壊してしまうので、これはどうにかしないといけないという思いが募ったそうです。
そこで、周りに1次、2次の救急を受け入れる病院がないのなら、自分で作ってしまえということで、救急に特化したクリニックを立ち上げたのが、2010年のことだったんですね。
開業して10年目ですね、多い時は年間約1万5千人、平均で約1万2千人の患者が来ているそうで、そのうち救急車で来る患者は1400から1500人だそうですよ。
たいていは歩いて来院できる1次、2次の軽症患者で、夕方頃は近所のおじいちゃんやおばあちゃんが多く、その後の20時頃までは小児科が多いそうですよ。
外来の受付時間は22時だそうですが、21時以降は仕事帰りの会社員の患者さんが多いそうです、それ以降、翌朝までは時間外加算で受け付けているので、ほぼ年中無休で開院しているそうなんですね。
救急に特化しているとはいえクリニックですから、経営は順風満帆かというと決してそうではなく、ここには黒字にならない構図があるというんですね。
救急の場合、原因がわからずに来る人が大半なことは分かりますよね。
最初はありとあらゆることを疑ってかかるため、胸が痛いという患者の場合も、心臓なのか肺なのか、どこが悪いのか調べるのに様々な検査を行うのは当然です。
でも、最終的に肋間神経痛だった場合は、結果的に心電図もCTも要らないはずですよね、すると保険適用から外されていくんですね。
ということは無駄とされた検査費用は、全てクリニックの持ち出しとなるそうです。
救急救命センターの場合は、診療報酬に加算があるため黒字になるそうですが、中小の病院で救急をやると赤字になってしまうというのは、こういった構図があるからだといいます。
救急クリニックが必要なことはわかっているのに、制度が追いついていないということなんですね
医師は、上原さんが院長で、あと副院長の2人だそうです、看護師が常勤とパートでそれぞれ5人、救急救命士が常勤、非常勤で3人ずつの体制とのことです。
その他に事務の常勤が4人、パートは4~5人いそうですが、いまは職員の給料をまかなえる程度の黒字になっているそうです。
院長であるご本人に給料を出すと、赤字になるそうですよ。
それでも上原さんは、自分もやってみようという医師を増やすためにも、自分の負担を減らしつつ黒字を出すことを使命としているそうです、それもみんながやりたくなるような大黒字が目標だということなんですね。
上原さんは、2015年にNPO法人日本救急クリニック協会を設立し、新しく救急のクリニックを開業しようとしている医師をサポートしているんですよ。
★ NHK総合『逆転人生』 7月13日(月) 夜 10時~10時45分
上原さんのもうひとつの顔、それは「ラリードライバー」だということです。
お医者さんがラリードライバー?それも並みのドライバーではなく、全日本クラスのドライバーというから驚きです。
産業医科大学があった北九州市は、地下鉄などはなく車がないと生活できない町だそうで、1年生の夏休みに免許を取り、従妹から中古車を譲り受け乗っていたそうです。
メチャメチャなぼろ車で、エンジンの回転数に合わせながらなんとかクラッチを入れる、そんな車だったからこそ、運転がいつの間にか上手になったそうなんですね。
2年生のときに雑誌でラリーの記事を見つけ面白そうだと、近くのモータースポーツクラブで当時10万円くらいの安い競技用の車を買い、友達3人で共有して走るようになったそうですよ。
ラリーは公道を使って行うモータースポーツで、使用許可をとった林道などを一般の車で走って早さを競う競技だそうですよ。
未舗装の山道を走る面白さにハマり、5年生で臨床実習の授業もなくレポートを書くだけだったので、少し時間が取れたといいます。
そこで、九州のジュニアチャンピオンシリーズに参戦したところ、すんなりジュニアチャンピオンが取れたといいますから、相当な腕前だったんですね。
翌年には、周囲の人の好意に甘えてお金をかき集め、戦闘能力の高い車を買って九州のチャンピオン戦に出場しているんですが、そこでもチャンピオンをとることができたんです!
翌年には、スポンサーもついたそうなんですね。
スポンサーがついたとのことで、プロドライバーの道も真剣に考えたそうですよ。
でも、ラリー本場のヨーロッパは別として、日本ではスポンサーがついてもそれ一本では食べていけないのと、ここまできて医師にならなかったら親が嘆くだろうと思って、医師の道を選んだとのことです。
医師になってからもラリーは続けていて、少しずつ排気量の大きい車で九州のラリーに参戦するうちに、全日本にも出場するようになったそうですよ。
救急医になるために埼玉に来てからの全日本選手権では、第1戦で2位に、第2戦では3位の成績をおさめているんですね。
クリニックを開業して3年ほどは忙しくて参戦できなかったそうですが、心にゆとりがないと思い久々に参戦したところ、気持ち的にかなりリフレッシュできたといいます。
それでまた、年2~3戦は出場するようにしたというんですね。
2018年には、全10戦のうち7選に出場とフルに近い参戦で、最終戦までトップだったそうですよ。
「初めて全日本をとれるかもしれない」と期待しましたが、最終戦で惨敗したそうです。
やはり欲を出すとダメなもんですね、それでも年間シリーズで3位の成績を残すことができたそうですよ。
医師になって初めての上司は、「医者に2足のわらじは成り立たない」というのがモットーの人だったといいます。
上司にその言葉を言わせないためにも、人一倍勉強をしたそうですし、麻酔科医としての技術も磨き、救急医として新たな世界も切り拓いてきたんですね。
それはラリーを続けたからこそ、医師の仕事にも全力で取り組むことができ、今の自分があると思うと語っています。
ラリーは長いことできるスポーツで、80歳の人が20代に勝つことも珍しくないといいます。
そういった経験から上原さんは、医学生には一般社会と関わる機会を積極的に持ってほしいといいます、コミュニケーション力、人にものを伝える力を養うことに繋がるからだ…と。
医療と違う世界に身を置くことは、視野を広げる上で大切なことだと言っているんですね。
医者という職業は忙しいので、ほかにもうひとつの世界を持つのは大変なことだと思うとしながら、若い人には様々なチャレンジをしてもらいたいと、切に望んでいるようですよ。
でも、上原さんがやってきたラリーはどうなんでしょうね。
儲からない構図がありましたね、スポンサーがついているので参戦負担は少ないのですが、代わりの医師を手配する人件費など恐ろしい金額になるといいます。
そんなわけで上原さんは、自分の給料を稼ぐために、埼玉と茨城の病院で麻酔科医のアルバイトをしているそうですよ。
2つの病院でアルバイトをしているのは、家計に入れるためとラリーの参戦費用にするためだそうです、大変ですね!
★ NHK総合『逆転人生』 7月13日(月) 夜 10時~10時45分
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今回は「上原淳のプロフィールや経歴は?救急医療改革医師はラリードライバー」と題しまして、上原淳さんの救急医療を経歴等でご紹介し、”二足の草鞋”ともいえるもうひとつの素顔もまとめてみましたが、いかがだったでしょうか?
上原さんは、心臓カテーテル室を増設してベッド数も増やし、新たに循環器の救急をはじめようと考えているそうですよ。
川越市では、心臓内科や循環器の医者が不足していて、循環器や脳神経の救急患者が出た場合、救急車が市外の病院に運ぶ率が高いそうなんですね。
川越市内をたらい回しされてから隣の狭山市に送りだしていては、助かる命も助からないといいます。
すでに勤務してくれる循環器内科の先生は確保しているそうなので、クリニックを拡張できる土地が見つかれば計画を進めたいと意欲を見せています。
今夜放送される上原淳さんの『逆転人生』、どんな展開になるのか楽しみですね。
それでは、今回はここまでとさせていただきます!
最後までご覧いただき誠にありがとうございました!