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こんにちは、sadachi. です!
鼠多門・橋 幻想的に!
石川県は7月18日から、金沢城の鼠多門と鼠多門橋の夜間ライトアップを始めると発表、昨夜10日に試験点灯が行われています。
高さ約3㍍の門扉の左右にある石垣やなまこ壁、鉛瓦の屋根、橋脚や欄干などに発光ダイオード(LED)の光が当てられ、能登ヒバで化粧された真新しい橋や、黒と白のしっくい塗りの門が幻想的に浮かび上がっていますよね。
18日の初日には、点灯式を行うそうですよ。
この日から金沢城内のライトアップを拡充する予定だそうで、五十間長屋の二の丸広場側や武具土蔵の鶴丸倉庫、本丸の石垣なども新たに照らすそうですから、夜の金沢城の魅力が一段と向上すること間違いないですね。
鼠多門・橋を含めた点灯時間は、日没から午後10時までで、11月下旬まで毎日点灯するそうですよ。
また開園時間も、夜9時まで延長するとのことですよ。
ひとつお願い、鼠多門・橋を車で通行する方は、見とれて事故を起こさないようにしてくださいね!
ここからは、以前の記事になります!
金沢城公園と尾山神社を結ぶ鼠多門と鼠多門橋は、7月18日の供用開始に向けて急ピッチの仕上げ工事が行われています。
すでに工事囲いは取り外され、美しい外観の全容が見えるようになっています。
さまざまな人間が行き交う江戸の世の橋、男と女の出会いと別れがあり、そんな庶民の喜怒哀楽の表情を包み込んでいる橋ですが、鼠多門橋はそうではないといいます。
では江戸の鼠多門橋が庶民の往来で使われたものではないとしたら、どのように使われたのでしょうか?
そこで「鼠多門・鼠多門橋とは?完成間近に!藩主交代に女の思い染みつく橋!」と題しまして、鼠多門や鼠多門橋の現状や江戸時代にタイムスリップして、どのように使われたのかをまとめてみましたので、参考にしてくださいね。
それではさっそく、本題へいってみましょう!
Contents
現在尾山神社がある一帯にはもともと町家が並んでいたそうですが、それが1635年(寛永12年)に火災があり、そのほとんどが焼失してしまったんですね。
それ以降、このあたりは金沢城の一角に取り込まれ、金谷出丸としての機能を果たしていくことになる訳なんですが、金沢城と町家の間には当然ですけど水堀がありましたから、堀を渡る橋が必要になったんです。
そこで造られたのが、鼠多門と鼠多門橋ということだったんですね、ただ鼠多門と鼠多門橋の創建年代は明らかになっていないそうです。
金谷出丸は、側室やその子息、隠居した前藩主や世継ぎの御殿があり、市井の一般庶民が通る橋ではなく、前田家一族やそれに仕える城中の人が通った橋だったんですね。
金沢城は幾度となく大火に見舞われ、多くの城門や橋が焼失して、金沢城三御門である石川門、橋爪門、河北門も例外ではなかったんですね。
でも鼠多門は、城内の多くの建物が失われた1759年(宝暦9年)の大火でも焼失を免れて、修理等を経ながら明治期まで存在していたんですよ。
1871年(明治4年)に廃藩になり陸軍の管理下に置かれ、1877年(明治10年)に老朽化し渡るのは危ないと鼠多門橋は撤去されているのですが、鼠多門は1884年(明治17年)に火災によって焼失するまで倉庫などに利用されていたといいます。
ということは、鼠多門で136年ぶり、鼠多門橋に至っては143年ぶりに復活することになったんですね、こう見てくると感慨深いものがありますね。
鼠多門は、石垣の上に二階建ての櫓を備えた構造となっています、門を抜けて坂道を上がると玉泉院丸の敷地に至るんですね。
金沢城内のほかの城門と同じく、屋根は木型を薄い鉛の板で覆う鉛瓦を使用し、外壁上部は白しっくい塗りで、腰壁はなまこ壁仕上げとなっているそうですよ。
なまこ壁の平瓦の目地には、黒しっくいが用いられ、他の門とは異なる特徴的な外観であったと考えられているんですね。
鼠多門橋の復元にあたっては、問題が数多くありその主な点は以下の通りです。
① 大型車両も通行できる高さ約4.7mを確保する必要がある
② 耐震性などの安全基準を満たす必要がある
③ 車や歩行者の通行に支障をきたさないように復元をする必要がある
などですね、市道を廃止したり移設するわけにもいかないので、完全復元は難しいとの結論に至ったそうなんですね。
【①の対応】
そこで現在工事が進められている鼠多門は、大型車両を通行できるように橋の高さは、尾山神社側で当時より2m高くなっているそうです。
【②の対応】
耐震性を満たすために、鋼材を用いた橋(鋼格子ラーメン橋+鋼門型ラーメン橋)になっていますが、鋼材の周りは木材板で囲われていますし、高欄や通路は当然木造なので、見た目は木橋そっくりなので問題ないと思いますね。
【③の対応】
通行に支障をきたさないために、6基ある橋脚のうち2基の位置がずれているんですが、ほかの4基は江戸時代と変わらない位置で復元されているんですよ。
このようにして鼠多門と鼠多門橋は、1ヵ月を切って7月18日(土)供用開始となります。
明治初期に撮影されたと思われる貴重な写真が残っています、それが以下の写真です。
明治初期の鼠多門と橋、背後にはそびえるように二の丸御殿が建っていますね。金谷出丸で暮らす女性たちは、二の丸を見上げるように望んだのではないでしょうか。
橋とは彼岸と此岸をつなぐもの、そして「橋を渡る」という行為は、ときに人生の転換を示すことがあると語るのは、作家の諸田玲子さんなんですね。
その象徴的な存在といえるのが、6代藩主吉徳の側室・真如院で、有名な「加賀騒動」の中心人物の1人で、吉徳の寵臣だった大槻伝蔵と密通し、吉徳の次男重熈の毒殺を図ったとされたんですね。
江戸から加賀へ向かう途中で、毒殺で嫌疑をかけられた真如院は、金谷御殿に入るなり囚われの身となったんです。
わが子である吉徳の4男・利和を藩主に就けようと画策したと疑われたんですね、それでも身に覚えがないので否定し続けるんですが受け入れられず、金谷御殿で失意の死を選んだといいます。
御殿へ続く橋を渡る無念はいかばかりだったろうと想像しますね、真如院にとって鼠多門橋は人生最後の橋となったわけなんですね。
6代藩主吉徳の死後、長男の宗辰、次男の重熈が藩主を継ぐのですが、相次いで早世してるんですね、そこで5男の重靖が9代目藩主を継ぐことになったんです。
藩主の生母となった善良院、誇らしげに金谷御殿から鼠多門橋を渡り、二の丸へ向かったと思いますね、でも期待は裏切られるんです。
重靖もまた着任から4カ月で死去してしまうんです、善良院が息子と生母の地位も失い、再び橋を渡って金谷御殿に戻るときの気持ちはどうだったんでしょうね。
入れ替わるように橋を渡って二の丸へ上がったのが、10代重教の母・実成院です、まさか7男の息子がよもや藩主になるとは思っていなかったでしょうね。
喜びはもちろんあったと思いますが、度重なる藩主の交代劇に喜びよりも不安を感じていたかも知れませんね。
二の丸は地位と格式の世界であるのですが、一方で金谷御殿は藩主家族のプライベートな空間としての意味合いが強く、人間的な情がほの見える異世界だったのかも知れませんね。
そんな日常と非日常の2つを隔てる境目に、鼠多門橋があるんですね。
鼠多門橋、二の丸と金谷御殿に関わる多くの女性たち、どんな思いを噛みしめて渡ったんでしょうね。
どうにもならない運命を前に、橋に上で泣いたのでしょうか、二の丸を見上げ、堀を見つめて何を思ったのか、その一人ひとりの思いが染みついているような気がしますね。
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今回は「鼠多門・鼠多門橋とは?完成間近に!藩主交代に女の思い染みつく橋!」と題しまして、鼠多門や鼠多門橋の現状や江戸時代にタイムスリップして、どのように使われたのかをまとめてみましたが、いかがだったでしょうか?
7月18日にオープンする鼠多門と鼠多門橋、実際の建造物は明治期に喪失しているのですが、そこで繰り広げられた悲喜こもごもの物語はいつまでも残るんでしょうね。
11代藩主だった治脩は、金谷での隠居暮らしを優雅に楽しんだみたいですね。
1808年(文化5年)の火災の折、二の丸が炎に包まれているのを横目に、うどんをいつもより多く3杯も食べたという逸話が残ているとのことですよ。
歴史と文化の町・金沢にまたひとつ、観光スポットができるんです、期待してくださいね!
それでは、今回はここまでとさせていただきます!
最後までご覧いただき誠にありがとうございました!
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